川嶋会長は平成27年(2015年)9月、永眠されました。(享年85歳)
ここに謹んで、お悔やみを申し上げます。
なお、この文章は、生前、平成19年(2007年)に会長自ら語られた内容です。

川嶋会長の思い出話 その1

 今でも現役バリバリの川嶋会長から、創業当時からの苦労話や思い出話などを少しだけご紹介させて頂きます。
当社の創業時期は、あのミスターこと、長島茂雄氏が巨人軍に入団した昭和33年。大学を卒業後、数年間国家公務員として勤務し、その後友人の父親に勧められた川嶋会長は若干27歳。当時としては画期的なガス体燃料のLPガス(プロパンガス)の販売に取り組み始めました。

 

川嶋会長

 

 「その頃のLPガスの販売形態は10キロボンベに鋳物コンロ、調整器などをセットにしての販売。価格は1万2千円、当時の大学卒の初任給が約1万3千円の頃ですから、今なら約18万円位?実に高価な燃料でした。もちろん旧勝田市で第一号店、水戸市でも他に2店のみの販売所があるだけ。一般のご家庭では当時の炊事用の主流は灯油を燃料とした“石油コンロ”で、それ以外ではお風呂用、“かまど”のご飯用には“まき”や“松葉”で、あとは“囲炉裏”でちょっとしたお湯を沸かしているのが一般的でした。

そんな中、創業当初は自転車に10キロボンベセットを積んで、ほとんど砂利道のところを一軒一軒、今で言う訪問販売。何せ“爆弾?”とも言われたくらいですから、そう簡単には置いてはくれず、大変な思いの連続でした。

それでも先ずは各地域の有力者のところから何とかお使いいただけるようになり、徐々にお使いいただけるお客様が増えてきました。当時まだLPガスをお使いになるのは、そのお宅にお客様がお見えになった時だけ、LPガスを入れたということ自体が一つの“ステイタス”だったのかも知れません。今でこそ、当たり前にどのご家庭でもLPガスを安全にご利用いただいておりますが、当時も、“安全”に関しては何より増して気を使っておりました。今でもその当時からの多くのお客様と、約半世紀に亘りお取引を頂いており、本当にありがたいことと、今でも心より感謝しております。」

  • 創業当時 勝田泉町店
    長女とダットサントラック

 

 「その後、時代的には「東洋の魔女」と言われた日本女子バレーボールチームが金メダルを取った東京オリンピック開催の年、昭和39年ころになると、創業から丸6年目を過ぎ、お客様も順調に増えてきた頃でした。

その頃になって、初めてサラリーマンの方々がプロパンガスをお使いになりはじめたものでした。中でもお役所勤めの幹部の方々多かったと思います。配達も当初は自転車にボンベを乗せての配達から半年後、やっとの思いでオリエント社製の「オート三輪車」を購入し、そしてこの頃には「ダットサン1200」トラックでの配達になりました。

当時、近所でもこの「ダットサン」は珍しくて、中には「触らして!」という人や、今で言うボランティアで、お客様のところの嫁入り道具の配達や、稲刈り後の米の運搬なども頼まれたものでした。何せ当時の運搬は、馬や牛が主流。一般にトラックはまだまだ貴重でした。ただし、今の自動車とは比較にならないくらい馬力が小さく、荷台に荷物を積んだ状態で水戸からの帰りなど、津田の坂道を登るのがやっとで、時々はバックで坂道を走るということもありました。

確か、ガソリンの販売所も水戸にしか無く、それも手回しの手動式計量機で、5リッター、10リッターというように燃料を補給したものです。

当時のプロパンガスは10㎏ボンベ売りで、一般にはお客様の近くに行った時にボンベを交換するという販売方法でした。電話もほとんど普及していなかった頃ですから、中身が無くなってからも何日間かはガスをお使いになれなかったという、今では全く考えられないこともありました。また、特に忙しかったのは盆暮れ前で、大晦日の夜などは、除夜の鐘が鳴り始めるころ、やっとお店に戻れたものでした。」

昭和48年当時 当社泉町店
昭和48年当時 当社泉町店
初めて購入した乗用車「ブルーバード」が写ってます。

 

 「約半世紀近くLPガス事業を営んできて特に印象的な年代は、やはり昭和48~49年頃のオイルショックの時期です。中東戦争に端を発した石油の高騰、その後のトレットペーパー騒ぎに発展した頃です。当時の日本では、原油の輸入ルートの多くが石油メジャーに依存していて、オイルショック後は灯油やガソリンなどの原油製品が大幅に値上げになり、さらに供給不安まで起きて、LPガスの輸入価格も数ヶ月で2倍以上になったと記憶しております。

その頃に当社でも写真にあるように、泉町店を改装し、やっと「ガス屋」さんらしい店舗になりました。その当時、当社では水戸にあるLPガス充填所に自社で容器を持ち込み、ガスを充填してお客様へお届けするという販売方法でしたが、ちょうど同じ時期にその充填所が事故を起こし、充填できなくなる事態になりました。供給不安と仕入高騰というダブルパンチに遭遇し、当時の仕入には本当に苦労したものでした。そんな中、ガスの充填で助けていただいた卸会社様とは今も感謝の気持ちで公私共々30年以上のお付き合いをさせていただいております。

一方、ガスの充填はできたものの、世の中のすべての物が高騰し、もちろんLPガスの仕入価格も値上げの連続でした。その当時、行政から「上限指導価格」が設定され、実際にはその価格が一般の灯油とLPガスの標準的な価格として凍結されました。そんな中、当社では極力値上げしないで、その標準価格をかなり下回るお値段で販売を続けておりました。その思いは今でも、例えば今年の春先、一般的には3回目の値上げを行っている中で、当社は値上げを見送ったということに共通しているものと思っております。また、当時、茨城県高圧ガス保安協会が作成し、当社でもお客様にお配りしたパンプレットに「LPガスを大切に使いましょう」というタイトルのものがあり、その内容には、例えば「湯沸器は一目盛下げて使用しましょう」とか「風呂の温度が冷めぬうち一度に入るよう心がけましょう」「煮炊き、湯沸しなどの使用後は無駄のないようすぐ消しましょう」など、今の時代の「省エネ」の掛け声と同じだと思う今日この頃です。」

つづく・・・